参加者31名、碌山クラブ4名
山の生涯はわずか30歳半という短いものでした。上京するまでの20年間を過ごした穂高。その後の全ての基がこの在郷時代に培われたといえるでしょう。碌山の足跡を追って歩いてみました。
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穂高駅からJR大糸線で柏矢町へ 柏矢町 大正4年(1915)6月1日開業。昭和12年(1937)の国有化までは信濃鉄道株式会社が経営。したがって碌山の存命中に大糸線は未開通で、彼の上京(明治32年・1899)時は保福寺峠を越え上田から信越本線を利用した。上田までの約50キロは徒歩、一部区間は渡し船や人力車。 |
そして、明治43年(1910)4月、篠ノ井線の田沢駅経由で無言の帰郷をした。 東の矢原と西の柏原の地名を仲良く分け合った、糸魚川街道沿いの「柏矢町」一帯は明治初頭から料理屋・旅館・商店・劇場・医院などが軒を連ねていたので、碌山もしきりに足を運び、また、ここを経由して西の山麓へ作業などに出かけている。 |
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矢原堰(やばらぜき) 犀川の水を豊科町熊倉(くまぐら)地区で堰揚げし、扇状地の等高線沿いに穂高川へ落とす人工の灌漑用水路。南安曇郡では最初の横堰。十ケ堰の完成は文化13年(1816)。矢原村の庄屋・臼井弥三郎(1621〜1690)の主導によって開削され、承応3年(1654)完成。当初は弥三郎堰と呼ばれた。 |
柏矢町駅から東へ。道路の拡幅で昔ながらの商店や民家が姿を消していく。 旧国道、国道147号線を渡り、矢原の信号を北へ曲がる。今日歩く道はいずれも明治30年ごろの地図に載っており、道路や街並みが変っても目をつむると昔の姿が甦ってくる。 ゆるやかに曲がった道に過ぎ去った日々を重ねてみる。 |
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矢原神明宮 矢原の地は、古くは伊勢神宮の神領(御厨・みくりや)だったので、この神社もそれに関連があったと考えられるが、近代には村の鎮守として尊崇されていた。ニューヨークから口喜源治にあてた碌山の手紙にも「・・・鎮守の森うす暗ふ雪風の中に埋もれたる夕暮、・・・無茶苦茶に故郷の恋しく相成り侯。・・・」としたためられている。 |
時代は少し降るが、本殿の軒下には大正11年と12年の繭の奉納額が掲げられていて、養蚕の盛んだった往時をしのぷことができる。 柏矢町駅からは荻原さん(荻原家の当主)も合流。格子の向こうに巴文様のついた大太鼓が見え、「これは守衛の兄の本十(ほんじゅう)が大正11年に奉納したものです。浅草で帽子業をしていました。彼は東京にアトリエを建てたり、守衛をバックアップしてくれたんですよ。重文の北條虎吉は帽子業界の長の方です。」と教えてくださった。 |
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臼井家 門前に「臼井弥三郎生誕の地」の標柱と、矢原堰開削の業績を讃える説明板が立てられている。 研成義塾(創設時)跡 井口喜源治(1870〜1938)が同志の応援のもとに創設した私塾の跡。明治31年(1898)11月から明治33年(1900)末まで、この地の矢原集会所(現在の矢原公民館)を借りて授業がおこなわれた。以後は三枚橋地区に塾舎を新築し、昭和7年(1932)まで存続。なお、集会所の前身は郷蔵(ごうぐら)で、この地区の年貢米の一時保管や凶作に備えての穀類保存のための共同倉庫であった。敷地内の青面金剛像<庚申様>は元文5年(1740)、大黒天像は明治9年(1876)の造立。 |
碌山は義塾の生徒ではなかったが、井口の教育理念に共鳴し、その事業を彼なりに助けながら、井口とその後継者や塾生との交流を深め、自らも人間的に成長を遂げた。 義塾の近くには碌山の無二の親友・西沢築(きずく)(碌山よりも年長ながら、小学校の同級生で成績トップ)や、初めてのプラトニックラブの相手・臼井彦代(8歳下の塾生・父の臼井喜代は義塾の有力な後援者の一人)の家があった。 井口喜源治記念館に研成義塾1回生の写真があり前列中央に彦代さんが写っています。守衛の日記にも「かわいい、かわいい」「彦代さんと話をした」などと出てきます。 |
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矢原北村の道祖神 安政5年(1858)建立の祝言像で、右の男神が盃、左の女神が瓢(ふくべ)を持っている。外周の文字は、右上から「安政五午年」、左上から「正月吉祥日」、下に「北村中」と読める。矢原の北村集落の守り神で、子供たちのお祭りは二月初旬に綿々と続いている。荻原守衛少年もそのお祭りに加わったに違いない。 |
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荻原守衛生家 明治12年(1879)12月1日に生まれ、同32年(1899)10月20日に上京するまでの20年間、ここを原点として、勉学・勤労・交友・思索などを通じて人間禄山の基盤が培われた。彼の死から6年後の大正5年(1916)、全遺作は母屋の南に隣接して建てられた『碌山館』に収めて展示された。 当主の荻原さんが説明してくださいました。「幼いころ、お客様に「画室」の戸を開けて差し上げるのが私の役目でした。」 |
〔当時の地名=南安曇郡東穂高村矢原〕 それらが碌山美術館に受け経がれたのは昭和33年(1958)のことである。 残念なことに生家と『碌山館』は、昭和45年に土蔵のみを残して焼失した。 これが残った土蔵です。焼失した作品の中に「ファーザー」という父の肖像がありました。現在残されたカラー写真が碌山美術館特別展に展示されています。 |
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30度をこす炎天下。白百合の花束を抱いて荻原家の墓地へ向かいます。 荻原家墓地 一族の墓石群の中でもひときわ大きい碌山の墓碑は、彼の十三回忌に建てられた。 |
表面の刻字・・故碌山荻原守衛の墓 辱知(じょくち) 中村不折 書−洋画家、書家。パリ留学中から碌山と親交を結ぷ。中村屋の看板や包装紙の文字を書いた。 |
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相馬家 白金村の庄屋。当主の安兵衛が弟(順養子)愛蔵と良(黒光)の結婚を機に洋風の応接間を増築した。相馬愛蔵の主唱する芸妓置屋設置反対運動や東穂高禁酒会に参加した碌山は、ここを訪れるうちに、良のもたらしたハイカラな教養や西洋文化に啓発され、特に長尾杢太郎の油絵「亀戸風景」は碌山が画家を目指して上京するきっかけにもなったと言われている。 |
個人のお宅ですので、お訪ねになる方は必ず前もって連絡して、お願いしてください。 外からは2階建てに見えますが、内部は高い天井の一室です。床の間があったり、当時としてはかなり棟梁も苦労した(?)のではないでしょうか。 現在の当主も相馬安兵衛さんとおっしゃり、3代目だそうです。 |
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厳島神社の赤い鳥居が見えます。相馬家の守り神で、水の神様の弁天さまが祀ってあります。 |
万水川(よろずいがわ) 堀金村西原から発して犀川に合流する一級河川。流長7.7Km。扇状地形のため中流から上は水量が少ないが、下流部は豊富な湧水を集めて滔々たる清流となる。 |
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大王ワサビ農場の水車小屋。脇を流れるのは蓼川で、万水川と隣り合って流れています。 観光客は観光スポットを次々と回っていきます。穂高らしいところはもっとゆっくりと歩かないと感じられないのではないでしょうか。 |
井口喜源治記念館 井口喜源治の遺品と研成義塾関係諸資料を集めて、昭和44年(1969)、井口旧宅(現在はテーラー)に隣接して開館した。 展示品を通して、聖書や論語を実践のよりどころとした彼のユニークな初等教育の実態と、広範な人的交流、800名を越える教え子の軌跡を辿ることが出来る。 黒光の嫁入り道具のオルガンは、相馬夫妻が上京の際に義塾に寄贈したため、通常はここで展示されている。 |
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荻原守衛は明治32年7月(推定)に水墨で「とてっこの花」を描いた。碌山山美術館の庭にも根づいている。 |
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碌山美術館本館 碌山は短い生涯の中で彫刻をしたのは3年のみでした。それで近代彫刻の基とまでいわれる作品を残しています。 その全作品がここに収められています。 |
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